2025.06.10 09:40
愛のかたち、真実は苦いな
初恋(ツルゲーネフ)
(ジナイーダは一階の開け放した窓から外をながめている。そこへ謎の男が近寄る。あろうことか父ではないか。ぼくは木陰にひそんでその様子を見ている)
父はひょいと肩をすくめて、帽子をかぶり直した。それはいつも決って父がいらいらし出したしるしであった。……それから「あなたは思い切らなくちゃだめです、そんな無理な……」という父の声がした。ジナイーダは、きっと身を起して、片手をさし伸のべた。……そのとたんに、わたしの見ている前で、あり得うべからざることが起った。父がいきなり、今まで長上着フロックの裾のほこりをはらっていたむちを、さっと振上げたかと思うと――肘までむきだしになっていたあの白い腕を、ぴしりと打ちすえる音がしたのである。わたしは思わず叫び声を立てようとして、あやうく自分をおさえた。ジナイーダは、ぴくりと体を震ふるわしたが、無言のままちらと父を見ると、その腕をゆっくり唇へ当てがって、一筋真っ赤になったむちのあとに接吻した。父は、むちをわきへほうりだして、あわてて玄関の段々を駆かけあがると、家の中へとび込こんだ。……ジナイーダは後ろを振返ると、さっと両手をひろげ、顔をのけぞらせて、やはり窓から消えてしまった。
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