2025.09.28 03:34
ギリシャ神話
熱が熱いところから冷たいところへ流れている様子を体験すると、ああ、時間が流れているんだ、過去から現在へ、現在から未来へと流れてる、時間は存在するんだ、よかった~、と安心できる、という塩梅なのだそうだ。カルロさんや朝永さんやボルツマンさんによれば。
しか~し、熱というのはターミネーターさんによればある集団内の粒ちゃんたちの一つ一つの動きを観察しきれないから、アバウトに全体として騒々しい集団やなとか、おとなしい集団やなとしか、人間が観察しきれないからの人間の感覚の限界の問題やないの?、と言っておられます。ターミネーターさんには各々の集団の粒ちゃんたちの一粒一粒の動きを完璧に把握できるので、人間のアバウトな感覚にすぎない熱いとか冷たいとかは関係なく、単に粒の一つ一つの動きを完璧に認識できてま~す、そうだ。じゃ、熱というの人間界の方言にすぎないから、とどのつまり、熱が熱いところから冷たいところに流れる、という時間の素となる言質(げんち)は、人間界にだけ通じる方言やね。郷に入れば郷に従え、ということにすぎんのやね。神に通じる、客観的な真実、を求めているわれわれにとって耳の痛い批判である。やっとカルロさんという救世主を見つけたのに。
デルタサルディとは、ターミネーターに比し、目の弱い人間界の方言、言い伝えでしかなく真実客観にあるのは粒の一つ一つの動き様しかないで。粒の動き一つ一つの動き様はガリレオやニュートンの物理法則、物理公式に従って動いているんや、って言っていたでしょう。それを、地方の伝承でひっくり返したらあかんでしょう。物理法則は時間を証明できない、しかし播州地方の言い伝えで証明できる。それでもって宇宙の客観的真実を証明できた、なんて安心していたらアカンでしょ。
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