2024.11.11 04:41
君が僕の息子について教えてくれたこと
仕事がら僕は自閉症スペクトラム等々に関心がある。後見人になったら認知症の人だけではなくそのような人々のお世話もすることがあるからである。「君が僕の息子について教えてくれたこと」というDVDを昨日見て大泣きしてしまった。認知症や自閉症、多かれ少なかれ僕にもある。気持ちはよくわかる。自分のことを言ってくれているのかと思ってしまった。なんとも自分自身の人生の縮図でもある。
2024.11.10 03:24
さっそく
もう時間が僕にはとても貴重なものになっているので、仕事も残したままにするわけにはいかないので土日は返上が当たり前で、また哲学も僕は好きなのでこれを読むかもしれない誰かさんのために残しておいてあげたい。
さて、デカルトのわれ思うわれありというのはシュールでかっこいいと思うのだがどうだろうか。まあ難癖をつけようと思えばいくらでも付けられるのだが、野暮ったい感じがするがどうだろうか。サルトルなんかノエシスノエマっていって反駁してるようだが、どうも僕には野暮ったい難癖のように思えてならない。そして、これからはノエシスノエマっていう言葉の類は使いません。認識するものと認識されるものは別物ですっていうことだそうです。心理学の言葉らしい。こんな言葉で取り繕うのはむなしい。難癖だって誰でもすぐわかりますよね。カンで。われ思うわれありって難癖付けられない、僕にとって。皆さんはどうでしょう。
で、これを第一の出発点としたい。それ以外の、サルトルが言ったとか、カントが言ったとか、デカルトが言ったとか、だれだれが言ったとか、そんなビッグネームが言ったとか、それはなしにします。時間の無駄です。自分自身が納得できないことは一応たわごととします。何かの試験で知っていることが得点になるので暗記するという作業はなしです。ここでの議論は得点にならないし、ここは予備校でもありません。時間の無駄です、僕にとって、そしてこれを読むだろう誰かさんにとっても。
2024.11.09 16:38
ウイルス
おお、早朝から起きてはりきって仕事をするつもりだったのに、脳の中のウイルスが悪さをしてとうとう日中の2、3時間を除いて哲学の本に熱中してしまった。力を込めて読んだのにがっかりの内容だった。デカルトさんの方法序説と省察。われ思う故にわれあり、しゃれていてシュールじゃないか。このこと一点をもってして神や心や物自体の存在を証明するものと期待していたのに。がっかりした。採用できない。承服できない。証明できてないよ、という感想を持った。そこで、その企画、僕が独り相撲で引き継ごうと思う。次回からの後悔日誌は、「われ思う故にわれあり」だけを根拠にして石ころの実在や心の実在、他社の実在、宇宙の実在、その他etc.にまで進むつもりである。神じゃないので、市井の高卒の一凡人の自称哲学者なので、期待は禁物です。まあ、ライトノベル程度のエッセイにすぎません。苦情は受けつけませんので、投稿しないようにね。返事も期待禁物です。本業の仕事もおろそかにできませんので時間をさけませんから。
2024.11.03 06:00
もう辞世の句を

もう辞世の句を残して隠居してもいいような年齢のように思う。血圧降下剤を飲むようになってガクンとバイタル(生活活性)が落ちた。気力が萎えるのである。で、ここでやり残した知的テーマが残っており、なんとも心残りである。若いころは宇宙の果て、時間の果て、石ころの存在、虚数、そんなものが疑問であったが、哲学や数学、物理学、心理学を経て、なんとなくそんなに疑問に思わなくなった。結論や証明とは程遠いのだが、そもそもが私の疑問なのだから、私がなんとなく納得すれば、それでいちおうはゴールということになる。で、最後に 残った疑問というのが、心である。ひらたく言って、ゴーギャンの”我々はどこから来たのか”という問いです。ま、私の場合、心は何でできてるの?(ロボットにも心はあるのか?)、という問いに置きかえています。おそらく私の人生の最後の問いになると思っています。この道程を子供や孫たちが引き継ぐことになるかもしれないので、道標を残しておこう。DVDを郵送しましょう。毎月1枚くらいのペースで。勉強じゃないので、宿題ではないので、観る義務はないで。いつか観たくなる時に誰かが見ればそれでいいので、ほかさんといてな、その誰かさんのために。ゴーギャンの絵を引き継いだ僕のように。
2024.10.15 06:14
類は類を呼ぶ(さみしさの行方)
「類は類を呼ぶ」、これ誤用やからね。ただしくは、語源である中国の古典の易経の「類は友を以って集める」です。つまり「類は友を呼ぶ」ですね。まあ、日本では、「類は類を呼び、友は友を呼ぶ」と言われることもありますが。
でね、たまに書士会の支部メールに投稿するときがあるのだけれど、もうやめようと思っています。それは友達ラインを脱退するときの心境です。つまり、さみしい人たちのグループには気が滅入るからです。明るい方へ、陽の当たる方へ、道を選ぶべきでしょう。なんで、あんなに陰気で不幸な方へ道を選ぶのか気が知れない。まあ、そんなグループに入っている僕も「類は類を呼ぶ」、もとい「類を友を呼ぶ」なんだろう。
もうさっさと脱退しようと思う。老いぼれですから、陰気な時間がもったいない。陽の当たる場所で残り少ない余生を送りたい。
2024.09.25 03:52
ロボトミー
あ、それとロボトミー手術って知ってるか?。脳内の神経束を切断して狂人を大人しくする手術。DVDの「カッコーの巣の上で」とか「去年の夏突然に」とかでテーマになってる。ノーベル賞もろてるんやて、ロボトミー手術を発表した精神科医に。「人間とは何か」を考えさせられる現実やね。画期的な手術法やということでノーベル賞が授与されている。この世界なんやね、と思います。
2024.09.25 03:31
勉強
勉強はツライ。当たり前のことだが、かの民事訴訟法学者はそうだからこそ闘志をもやして喜んで立ち向かわなければならないとのたまう。一流の学者はみんなその道を歩んでおられるということだ。私わけあって福祉関係法を勉強しているのですが、この数式で半年くらい頭の片隅を占領されている。「名目手取り賃金変動率=物価変動率×実質賃金変動率×可処分所得割合変化率」、頭痛かったけどいつものようにヘノカッパの解読ができました。やっと、時間を他の問題に振り分けられるようになってうれしい。クマさん八つぁんの何の変哲もない数式であることが分かった。後進のためにいつかお話ししましょう、このブログで。で、ようやく福祉関係法も卒業できたみたいなので、記念に社労士試験を受けてこの分野は終わりにします。労働法もおもしろかったし、福祉関係法も勉強になった、どれも「人間とは何か」の道に通ずる。いい思い出でなりそうです。
2024.09.05 19:21
陽の当たる坂道ふうに
いろいろあって、今の心境はアランフェス協奏曲(https://www.youtube.com/watch?v=oVSsnlENCGg)の心境です。ずっと好きなのはステービーワンダーのオーバージョイド(https://www.youtube.com/watch?v=cIhd5Yc5TCY)。精神科医と2時間ほどお話しする機会があった。精神医学の奥深さにまいりました。やっぱプロはプロだわ。ほんと落ち込む、いまの自分の惨めさに、やるせない気持ちだ。なにか輝く光が欲しい。ま、夢みたいなこと言ってないで、まずはセクハラはもちろん、パワハラをやめることにしよう。何を力んで怒鳴り散らしてるんだろう、実現したってそれが何なんだ、どうしたっていうんだ?。輝きなし→アランフェス協奏曲、ちょっと気持ちが前向きなとき→オーバージョイド、ってコースになります。自分がちっぽけすぎてやってられませんね。もう廃業まじかの予感もするし、人間いろいろありますね。みなさんは若いんだから、陽の当たる坂道ふうに足取り軽く歩んでくださいね。
2024.08.17 18:15
水平社宣言
1922年(大正11年)3月3日
全国に散らばっている、われわれ差別を受けている人々よ、団結せよ。
長い間、いじめられてきた仲間たちよ、解放令がだされてから約50年の間、われわれのためといって、多くの人々がさまざまな方法で行った運動は、効果をもたらすものではなかった。同情やあわれみに根ざした運動では差別はなくならないのだ。このことを思えば、今、われわれ自身から人間を尊敬することによって、自ら自由と平等を求める集団運動をおこすのは、当然のことである。
仲間たちよ、われわれの祖先は、自由と平等を心から求め実行してきた者であった。厳しい支配政策の犠牲者であり、たくましく社会や文化を支えてきたものであった。心を引き裂かれるようなどんなに厳しい差別の中でも、人間としての誇りは失わなかった。そして、今、その犠牲者のわれわれが、差別を投げ返す時がきたのだ。われわれが、差別を受けてきた者であることを誇りうる時がきたのだ。
われわれは、自分自身を低くみたり、臆病になったりして、これまでたくましく生きてきた祖先をはずかしめたり、人間の尊厳をおかしたりしてはならない。人の世がどんなに冷たいか、人間を大切にすることが本当はどんなことであるかを知っているからこそ、われわれは、心から人生の熱と光を求め、その実現をめざすものである。
水平社はこのように生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。
2024.08.17 18:06
新しい世界
平塚らいてう
猫又坂を下り、青田越しに向い側の森をのぞむと、朝などは遠方の竹林に白鷺がいくつも点々と、とまっていました。大塚の坂を下りながらの眺め、護国寺の赤い門、蒼い蒼い大空、雪の富士、黄葉した銀杏の大樹など――女学生時代の純な心に映った、通学の朝夕の自然の美しさ、その鮮やかさ、のびやかさは、おそらく生涯忘れ得ぬものでしょう。わたくしはこの道を、朝に夕に、新しい世界に生きるよろこびに胸を躍らせながら通いはじめたのでした。
元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。/今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。/さてここに『青鞜』は初声を上げた。/現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。/女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。/私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。